たぶん わたしは
たぶん わたしは手紙です

わたしには わたしの読めない文字がぎっしりと書いてある

誰かが誰かに送る手紙です

 

愛していても

「いないわ!」と書いてある

のかも知れない手紙です

愛されていても

「もっと……

 もっと愛して!」と書いてある

のかも知れない手紙です

 

でも悲しい手紙です

わたしには あの配達夫もありません

第一 宛名がありません

ただ「あなたに」としかありません

 

だからわたしは出かけます

「もしもし もしもあなたでは……」

戸口から戸口へとたずねます

「もしもし もしもあなたでは……」

 

「違います」「違います」「違います」

どこへ行っても 違います

奇妙な不思議な手紙です

そこでわたしも手紙を書いた むろんわたしに宛てた手紙を

 

高野喜久雄

詩集 <二重の行為>所収

「現代詩文庫」思潮社

自らを 誰かに読んで欲しい「手紙」にたとえ
しかし一体誰に受け取ってもらえるのかもわからず
あちらこちらを彷徨うその所在なさ。
若かりし私は、最後の1行が理解できなかった。
今の私には すとんと腑に落ちるものがる。
「この世の誰かに宛てた手紙」などではない。「この世の誰かにわかって欲しい私」でもない。
手紙を読み解くことが出来るのは只一人 この「私」のみ。 他の誰でもないということ。
これが、孤独を真っ正面から見据え、孤独であること、只独りの「わたくし」であることに 
とうに覚悟を決めた詩人・高野であることに
若いころの甘っちょろい少女であった私は、思いを至らせることが出来なかったのだろう。
そしてまた 今の私は 独りであること 私という手紙を 誰にも宛てるつもりなどないことを
深く 心に決めたのである。 (2003/秋)