去年冬に出会った「鬼束ちひろ」が気に入っている。
この人は 最初からまるで天啓のように私に入ってきたのである。
はじめて「月光」という曲を部分的に聴いた
(ビデオクリップのサワリ部分なので視覚情報も同時にある)時は、
鳥肌がたった。 「あっ」と思った。
それ以来、ずっと全曲じっくり聴いてみたいと思っていたが
元来TVをあまり見ない生活なのでなかなかその機会がなく、
ようやくある音楽番組に出演しているのをみつけて録画したのである。
その後、今年の9月に、
NHKの「トップランナー」という番組での
インタビューなどを見ていて、
この人の第一印象とたがわぬこの人の感性を
再確認したのであった。
この人がいかに自分の「ことば」というものに対して正面から向き合い、
とことんそれにこだわって、それを歌という形で歌い上げていっているか。
五嶋みどりのインタビューを見ていたときに受けたのと
似たような種類の感覚をそこに感じた。
この人はきっと「歌」を取り上げられたら
死んでしまうのではないかと思った。
・・・最近は例えば「浜崎あゆみ」のように自分でことばを発する歌手が多いのだが、
浜崎あゆみから感じる「ことばへの熱意」は評価するものの、
声質や発声法や歌唱技術の未熟さや、
所属会社の商売の方針などに邪魔されて、
自分の表現したい世界を表現しきれていないであろう
「もどかしさ」をも感じていた。
鬼束はその点、とても幸せな歌手である。
天性のヴォーカリストとしての資質を感じるし
(私はこの人の声は大変美しいと思うし、何より存在感がある)、
自分の表現方法として、歌手、というもの以外を想像することすらできない、
と言い切れるこの人の潔さは気持ちよい。
歌を歌うようになって、自分が生き易くなった(本人談)ということは、
歌の中に自分の世界を表現しきれている、
完全燃焼できているという証拠であろう。
ことばを大事にしているが決して言語には呑まれていないと感じる。
小鳥がさえずるように
魚が泳ぐように
言語、感覚、音楽の幸福な三位一体がそこにある。
まだ聴いていない人はワンコーラス試聴できます。
残念ながら今私の気に入っている
「Infection」
という曲の試聴コーナーはみつからなかった。
彼女への注文があるとすれば、英語の歌詞の
「こなれの悪さ」についてだろうか。
浜崎あゆみが つたない日本語ながらも
「わたしは英語わからないから
英語じゃ自分のいいたいことが表現できない
だから英語は歌詞に使いません」
と言い切っていることを
好感を持って思い起こす。
◆
「何とか上手く答えなくちゃ」
そしてこの舌に雑草が増えて行く
(「Infection」より)
◆
不愉快に冷たい壁とか
次はどれに弱さを許す?
最後(おわり)になど手を伸ばさないで
貴方なら救い出して
私を 静寂から
時間は痛みを
加速させて行く
(「月光」より)
◆
残酷に続いてくこの路で
例えば私が宝石になったら
その手で炎の中に投げて
◆
貴方の腕が声が背中がここに在って 私の乾いた地面を雨が打つ
(「眩暈」より)