蜘蛛の巣

今日のTV欄を見たら、「宇宙から来た巨大グモ」とかいう映画をやる。
一瞬、鳥肌。
何を隠そう、私は世の中で一番嫌いな生物が「クモ」。
嫌いっていうより、もう、これは自分の生存本能を脅かすほどの「恐怖」。
でも、生まれつき,というわけではないみたい。

小さな頃、近所に桜並木があったんだけど、
その下を歩いていてクモが上からつつーっと降りてきたのを
「落ちちゃってかわいそう」って言って掌に乗せて歩いた記憶があるのだ。
つまりその頃は特にクモが怖かったわけではないみたい。
いったい、いつからこんなに怖くなっただろう。

中学の時に同級生にクモを持ってこられて
恐怖で腰を抜かして泣きべそかいて驚かれた思い出がある。
当の同級生も「まさかそんなに嫌いとは知らなかった」って謝ってた(^^;

どうも私が怖かったのは本体よりもむしろ
「蜘蛛の巣」
だったような気がする。

10代の頃、時々クモの夢を見てうなされた記憶がある。

決まって、私は洞窟の中か穴の中などに居るのだ。
そして入り口には蜘蛛の巣がびっしり張っていて、
そのせいで外に出ることができない。
考えてみれば手でかきわけて壊して脱出できる筈なのだが、
実際は恐怖で近づくことすらできない。
外界は透けて見えているのだが、
自分は閉じこめられている恐怖感で一杯。
全身震えが止まらず、
あまりの恐怖に冷や汗びっしょりで叫び声を上げて、
目が覚めるのだ。

これは私の自己分析によるものだが、
どうも、蜘蛛の巣は
「母親」の象徴
だったように思う。

私と母親の関わりはかなり根が深い。
私は母親の期待を一身に背負って育てられたのだ。

最初は落胆からのスタートだ。
一人目が女児だったので
二人目も女児だったことへの落胆。

まず幼稚園のときに知能テストでやたらよい結果。
その後も目立つ子供だった。
お遊戯会ではいつも主役。
オルガン教室に通わせればあっというまに一番になる。

落胆は期待に変化する。

オルガン教室の教師が芸大出のチェリストだったことから
私の音楽への道が始まる。
教師は私がチェロ向きだと言い、
音楽の才能を認めたらしく、チェロをやらないかと勧めたのだ。
幼稚園児に人生の判断能力はない。
今でもはっきり覚えている。
私は話しかける教師の顔など見ていなかった。
私は母親の顔しか見ていなかった。
そしてそこにありありと浮かぶ期待の表情を見て取って、
「やる」と答えていたのだった。
ここで私の人生は決定したようなものだった。

私はそこそこ才能があったらしく、
「師匠」が次々ランクアップしていった。
名古屋に一度引越し、東京に戻ってきたとき、
私がついたのはN響の首席奏者(当時)だった小野崎先生だった。
この頃になると母親は完全にステージママのようだった。
毎週レッスンで泉岳寺のN響事務所や国立音大などへ通うのだが、
常に母親が楽器を持って着いてくる。
そして手帳に師匠のレッスン内容を克明にメモして帰るのだ。
自宅でのレッスン時には
公団の狭い3DKのふすまの向こう側で
練習に耳をすませ、
師匠のレッスン内容を繰り返し私に指示する。
私はいつも見張られていた。

この頃には師匠からは、
東京芸大か桐朋音大付属高校に進学することを
前提に指導されていた。
芸大は国立であるから、
通常の学科試験も優秀でなければいけない、
ということで
学校の成績もトップクラスであることを要求された。

「なんでもできなければいけない」。

そして、私は幸か不幸か
その要求に応えることができてしまったのだった。

今でも覚えている光景がある。

小学校低学年のころ、
学校から帰って外で遊ぶときに、
自宅の窓に黄色い旗が出たら、
家に帰らなければいけないことになっていた。

なにしろ忙しい小学生である。

ピアノの練習とチェロの練習で
合わせて3、4時間にもなり、
その他に学校の宿題や勉強である。
いつも時間を気にしながら過ごしていた。

ストレスは相当だった。
音楽そのものへのストレスではない。
母親の過干渉からくるストレスだったと思う。 
髪の毛をむしり続けてハゲてしまったり、
顔の皮膚の一部をむしって傷が治らなかったり、
今思えば色々あった。

「家出事件」もあった。

母親が買い物から帰ってきたときに
練習の手を休んでいたら、
「見ていないとすぐにさぼる」と怒り出して、
抗議をしたら締め出されたので、
私は悪くない、と主張するために家出したのだ。
しかし小学校4年生の悲しさ、
どこへ行けばいいかわからず、
結局小学校の渡り廊下に座り込んでいたのだった。
その日たまたま担任の教師が宿直で、
見回り時に私を発見し、家に連絡し、
迎えに来た父親に連れられて
あえなく私の家出は幕を閉じた。
教師曰く「犬かと思った」

帰りの道々、父親は私を一言もしからず、
「星が綺麗だなぁ」などと言っていたのを思い出す。
私は涙ぐんでいた。
しかしその時も
自宅のドアを開けた途端に飛び込んできたのは
「誰がそんなとこまで行けと言った!」
という母親の怒声だったのだ。

中学にすすみ、小野崎先生はランクアップした私を
ご自身の師匠に委ねることにした。

今は亡き大家、斎藤秀雄氏である。

サイトウキネンオーケストラなどで名前をご存じの方も多いだろう。
斎藤門下生になるということは
この世界ではエリート中のエリート、
大変な名誉で、
桐朋進学などは約束されたようなものである。 
桐朋学園に毎週通い、ときには藤原真理さんなどとも遭遇し、
母親は「おまえもあんなふうになるんだ」とばかりに張り切る。
この頃の母親はもう、200%私のステージママだったと思う。
干渉も半端ではない。 
気性の激しい同志、
強烈な衝突を繰り返していた。
「じゃあ楽器なんかやめろ」と何度も煽られ、
そのたび唇を噛んでいたのだが・・・

進路決定の頃、私は反乱を起こしたのだった。

いつもの母親の売り言葉に
とうとう私は
「やめる!」
と叫んだのだ。
もうそうなれば後へは引けない。
あとはまさに「血みどろの戦い」、という感じである。

「音楽学校へは行かない。普通高校へ行く。大学は外大に行く」
と宣言した私に、
母親は
「うちは趣味で音楽やらせるほど金持ちじゃないんだから、
プロにならない奴は習わせない」
と宣言し、
そこで私はピアノもチェロもやめたのだった。

チェロは見るだけで「心の傷」がうずくので
それ以来触らなかったが、
副科のピアノはそれからも時折中断しながらも弾き続けてきた。

その後も母親の 「復讐」 は大学生になる頃まで続いた。

まず、高校受験。 
黙っていても
国立付属(芸大付属)に行けたはずなのだから
私立などは許さない、
という母親の圧力。
そこで寝ていても受かるように
トップランクから1グループ落として
都立三鷹高校にする。
ここでまず散々母親にいじめられる。

高校時代。

何か親と衝突するたびに
母親の決めぜりふが飛び出す。
「文句があるなら今すぐ出て行け。
そのかわり親は一切助けないし二度と家にも帰ってくるな。
高校は義務教育ではないんだから。
自分で全部やれないなら親の言うことを聴け」

「文句があるなら、おまえにかけた金を耳を揃えて返せ。
金庫の中に明細が入ってるんだから」

今日、私の経済力が並の人より高いのは、
この頃浴びせ続けられた
「自分で稼げない奴は一切文句をいうな」
という母親の圧力に対する反発がバネになっていると確信する。
「自分の食い扶持をすべて自分で稼がないうちは自由にはなれない」のだ。

そう。
母親の言うことに反発しながらも、
母親自身が17で田舎を単身飛び出してきて、
完全自力で都会で生き延びてきた歴史を知っているために言い返せなかった。
本人ができもしなかったことなら説得力はないのだが。

大学受験。

暖房横の席にあたって、居眠りしたお馬鹿な私。
おかげで外大は 「サクラチル」
受験料を惜しんだ自分は、「すべりどめ」は早稲田の商学部。
もっと山ほど受けてればよかったが・

まさか落ちると思っていなかったのと、
受験料もバカにならないので、もったいないと思ったため、
「節約」してしまったのであった。
だって、10受けて10受かったって入学できるのはひとつだし、って。

「私立なんか許さない。就職しろ」
とマジで母親に迫られたが、
このときだけはいつも母親に逆らえない父親が、
「早稲田ならお父さん、お金だしてあげてもいいぞ」と一言。
この人は横浜国大建築科を卒業後、
文学の夢捨てきれず学士入学で早稲田の仏文に入り直した御仁。
母校に娘が入ることへの嬉しさを隠しきれない。
父のおかげで私は一応大学生になれたのだった。

母親との攻防に終止符が打たれ、形勢が変わったのは19の時だ。

高校の頃から素行のおかしくなった姉が、
就職先で不祥事をおこし、一家がどんぞこに陥ったという事件があったのだ。
姉の名誉にかかわるので詳細は書かないが、
週刊誌ネタになりかねないほどの事件だった。 
結果としてうちは経済的にかなり苦しい状態になったのだ。

この時 母親が夜中に台所で泣きながら死にたい、と云う姿を見てから、
私と母の関係が変わったように思う。
母親がそういう弱みを見せたのは初めてだったからだ。

私はバイトで貯めたお金を17万ほど定期預金にしていたのだが、
そのお金は後期の学費に消えた。
その後も塾講師のバイトを目一杯増やして稼ぎまくっては学費をつくった。

失踪した姉の居場所をつきとめて夜中にタクシーとばして
繁華街で夜明けを待った時も、
憔悴している母親に付き添い励ましたのは自分だった。

ダメだ、ダメだと云われ続けた自分がようやく今 
存在を認められている気がした。

その事件から母親が多少気弱になり、
やっと母親と対等に向き合えるようになったように思う。

その頃を境に徐々に
例の「蜘蛛の巣」の夢は見なくなっていった。

出口をふさぐ蜘蛛の巣は、母親が張り巡らせた
娘を支配するための
巧妙な罠
だったように今では思う。

★余談★

あとで心理学の本で知ったのだが、

しばしば、蜘蛛は「悪い母親」の象徴として

現れるものなのだそうだ。