もはやそれ以上
もはやそれ以上何を失おうと

僕には失うものとてはなかったのだ

川に舞い落ちた一枚の木の葉のように

流れてゆくばかりであった

かつて僕は死の海を行く船上で

ぼんやり空を眺めていたことがある

熱帯の島で狂死した友人の枕辺に

じっと坐っていたことがある

今は今で

たとえ白いビルディングの窓から

インフレの町を見下ろしているにしても

そこにどんなちがった運命があることか

運命は

屋上から身を投げる少女のように

僕の頭上に

落ちてきたのである

もんどりうって

死にもしないで

一体だれが僕を起こしてくれたのか

少女よ

そのとき

あなたがささやいたのだ

失うものを

私があなたに差し上げると

黒田 三郎

詩集「ひとりの女に」所収

「現代詩文庫」思潮社

戦後最高の恋愛詩集と言われたこの「ひとりの女に」で黒田は詩壇の芥川賞ともいえるH氏賞を獲得したのであった。

すべてを失った青年の前に、この「ひとりの女」との出会いがいかに色鮮やかであったことか!・・・・・・・

最後の2行。 「失ったものをさしあげる」ではないのだ。「失うもの」をさしあげる、と言っているのである。